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松島 如戒のお役立ちコラム

墓地の種類

一般的なお墓

○○家のお墓

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「家」墓の発生過程と歴史ですが、まず、昭和20年代後半から「寄せ墓」といわれる墓地の改葬が本格化します。
これには、大きく二つの要因があります。
一つは、墓地の区域が手狭になったことです。土葬が多い農山村地域では、原則として墓は一人一墓でした。ところが、第2次世界大戦の戦死者の増加や人口増加による死者の増加などによって、墓のスペースが不足して来たため、土葬して数十年を経た「骨」のみが残ったもの、また「腐敗途上」のもの(この状態で火葬した)、これらを一ヶ所に集めて「○○家」として、「骨」の部分は「収納スペース(カロート)」を作り、そこに納めました。言い換えれば、「墓地の区画整理」であり、これが進んだ結果、戦後民法で否定したはずの「家墓」を生み出すことになりました。皮肉な話です。
もう一つは、火葬の普及により、「一人一墓」の必要性が少なくなったことです。
そんな理由で、地下部分に「物としての処理機能」を持たせ、地上に墓石や墓誌を建てて「○○家の墓」などと彫刻、さらに納骨されている人々の戒(法)名や名前、死亡年月日等のデータも彫刻することで、墓の持つ二大機能を満足させる文化が定着してきたのです。

一人墓

一基の墓に、家族親族をゴチャゴチャに納骨しメモリーするのではなく、「個人」を強調し、「墓は一人墓」とするという古来の伝統的な葬法を、今日に至るも継承しているケースも、未だ存在しています。
最近では、共に入る人もなく、墓に入るのは自分一人だけだが、個人の墓だけはほしいという強い思いからの「結果一人墓」もあります。
その祭祀や、祭祀に要する経費は、寺や墓地管理者への前払いが多いのですが、最近では、「生前契約」の「決済機構」による預託金システムを活用し、50年とか100年、あるいは七回忌までは個別に管理して、その後合葬墓での合同供養ができるシステムも実現し、既に活用している方々もあります。

二人墓

2003年11月、米国最高裁は同性(男と男、女と女)同士の結婚を認める判決を下しました。米国大統領は、この判断に反発しています。
我が国では、医学上の治療がやっと公的に認知されるようになったレベルであり、法的な「男」と「女」の判断は、未だ先のことです。
「墓」の二大機能の一つは、メモリー、アイデンティティ、つまり「心」の問題です。二人墓は「この世で添えない」「心」を、あの世で成就させようとの画期的な試みです。このように考えると、「二人墓」は21世紀型ライフスタイルを象徴するといえます。
もちろん、いわゆる普通の夫婦でも可能ですし、兄弟姉妹、日本の法律では生きている間は夫婦とは認められない愛人同士でも良いでしょう。

皆で仲良く入る「合葬式の墓」

1980年代後半以降急増したシングルライフの女性の間で、「墓が持てないのはおかしい」、また 「ペアであっても墓の承継者(子どもなど)のない者に、墓処は使わせないのは変ではないか」といった問題意識が台頭したことが、 合葬式・管理費一時払い方式の墓地が出現した具体的な要因でした。
比叡山大霊園の一角の「永代供養墓」が1985年に初めて出現したのを皮切りに、 それ以降いろいろなコンセプトで、文化装置として「皆で仲良く入れる墓」が提案され、具現化していきます。
これらの流れより一世代古いこの種の墓としては、大阪区の「一心寺の骨ボトケ」があり、 今(2003年)に至るも盛況を極めています。この歴史は古く、戦前、戦中のものは第二次世界大戦の空爆により損壊していますが、 戦後十年ごとに、焼骨の骨粉により仏像を建立し、この仏像が今日では、一心寺 の名物ともなっています。
もっと古いものでは、紀州の高野山は墓の名所ですが、 奥の院の弘法大師御廊手前の左手に「六角堂」という、死後血縁者等の「縁が薄い」 人々の最期の砦「お大師さんと同行2人の墓」もあります。(高野山の墓)

もやいの碑

なかでも「もやいの碑」、そしてこれを運営する「もやいの会」の果たした役割は、著しく大であったといえます。
生涯を人権問題に捧げ、東洋大学学長などを長年務めた故磯村英一博士の、「有縁」結び合うことで生きて来た「人」が死によって「無縁」という扱いをされることは許されない、という強いお気持ちに多くの有識者が共鳴した結果実を結んだ、「葬送文化」革命の実現でした。
21世紀初頭の今日、「もやい」の理念や哲学、そしてこれを具現化した文化装置を含め、今や400ヶ所を超えるといわれる「合葬墓」 「合祀墓」の原点であり、「もやい文化」と称されるほど大きな影響力を持つに至っています。(もやいの碑、もやいの会

その他

80年代後半には、京都浄寂光寺の「女の碑の会の納骨堂」、新潟・妙光寺の「安穏廟」、東京・巣鴨の「もやいの碑」が、 コンセプトも納骨形態も異なっていますが、20世紀末の「墓文化」革命の担い手として脚光を浴びました。

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